~城が伝える戦国の乱世と天下人~
中世日本、特にその後半に当たる戦国時代には多くの城郭が建築されました。
世界的に見ても特異なのが、その建築主が戦国大名といった有力者に留まらず、
寺社勢力や農民といった人々も含まれることです。その後、三好長慶、織田信長、豊臣秀吉ら
天下人の登場によって戦国時代は終わりを迎えます。
そんな彼ら天下人が整備した城郭はひときわ大規模なもので、
建築技術的にも日本史上でも記念碑的な存在であり続けています。
また、この時期はヨーロッパでは大航海時代で、多くの宣教師が日本に渡来してきました。
その宣教師と日本人との出会いの場となったのが、天下人の城郭でした。
東西世界の交流の場としても城郭群は大きな価値を有しています。
「戦国時代を伝える城郭遺跡」と「時代の変化を伝える天下人の大規模城郭」、そして
「東アジアでの大航海時代の足跡」
が評価されて、世界遺産だったらいいな~
中世日本には、戦国時代と呼ばれる乱世の時代がありました。
不安定な社会情勢で各地に戦国大名と呼ばれる勢力が乱立し、100年以上も争いが続いていました。
戦国大名達は争いに備えて城を整備し、
城下に町を築いて独自の政策を行い、まるで1つの国のような勢力を築いていました。
一方では戦国大名の支配がなく、農民による一揆が支配する地域も存在しました。
忍者で有名な伊賀と甲賀、
「農民の持ちたる国」と称された加賀、「戦国の縮図」と称された紀伊などが代表的な地域です。
彼らの大きな特徴は、仏教で結びついた共和制だった点です。
一向宗に代表されるような仏教の教えに民衆が集い、戦国大名とも同等の勢力を形成していました。
更には、仏教寺院そのものによる武装勢力も存在していました。僧兵と呼ばれた兵を有し、
寺院の周りは堀や石垣で防御するなど、城のような機能を持っていました。
戦国大名、農民一揆、仏教勢力などが身分に関係なく争いを繰り広げていた日本の戦国時代を伝えるのが、
彼らが築いた大小さまざまな城郭群です。
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そんな戦国時代で天下人と称されるほどの権力を始めて持ったのが、 三好長慶です。その次の時代には織田信長が、さらにその次は豊臣秀吉が続きました。 特に織田信長と豊臣秀吉は中世以来のバラバラな統治体制や、農民による共和制のような地域社会 を武力と経済力で制圧していき、中央集権的な国家を建設していきました。 そして最終的に豊臣秀吉が 身分に関係なく争う戦国時代を終わらせ、 日本は大きな転換点を迎えました。 また、天下人の城は建築技術を大きく飛躍させ、 石垣と天守閣を備えたものへと変化させました。 その変化は後の姫路城などの近世城郭へと繋がっていきます。 更に天下人の城は防御に留まらず、 自らの権力をアピールする象徴的な存在としての機能も果たしていました。 そんな天下人による大規模な城郭遺跡は、 時代の変化、城郭建築技術の発展、そして城の役割の変化を私たちに伝えています。
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日本が戦国時代だった頃、ヨーロッパでは大航海時代を迎えていました。 特にスペインやポルトガルは宣教師の布教活動と共に次々と植民地を獲得していました。 その大航海時代に、ポルトガルから日本に伝わった鉄砲は日本の戦国時代のみならず、 世界の軍事面でのパワーバランスを大きく変化させることになりました。 また、スペインやポルトガルの宣教師たちは天下人からもてなしを受けていたことが 彼らの日記などに記されており、 当時の日本の様子を知る貴重な資料となっています。 そして、そのもてなし、つまりは大航海時代における東西世界の交流の舞台となったのが、天下人の城でした。 つまり天下人による城郭遺跡群は、世界史においても大きな意味を持つ記念碑でもあるのです。
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琉球王国での交流・社会・自然崇拝的な信仰を伝えるグスク跡(城跡)や祭祀拠点から構成されています。 登録されているグスク跡(城跡)はすべて石垣のみの遺構です。
朝鮮王朝の非常時の際に臨時首都が置かれた要塞で、日本と中国の築城技術を反映しています。 他にも、築城や防御に僧兵が関わった点も大きな特徴です。
ラジャスタンの丘陵城塞群(インド)8~18世紀に繁栄したラージプート諸国の権勢を伝える6つの城塞から構成されています。 イスラム教の影響を受けた装飾や庭園が残っているのも大きな特徴です。
13世紀後半にイングランド王のエドワード1世によって建設された、 中世ヨーロッパの城郭建築を今に伝える城郭群です。
交通の要衝だったために古代ローマやミラノ公国など様々な国の支配を受けてきた街で、 その街中にある中世の3つの城が登録されています。
一乗谷朝倉氏遺跡の博物館です。
小谷城戦国歴史資料館「戦国大名浅井氏と小谷城」をテーマに資料館です。
日本遺産・忍者日本遺産である「忍びの里 伊賀・甲賀」のホームページです。
根来寺 公式ホームページ中世に一大宗教都市を築いていた根来寺の公式ホームページです。
れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)小牧山城の敷地内にある資料館です。
安土城郭資料館安土城に関する展示を行っている資料館です。
安土城天主 信長の館安土城天主の最上階を実寸大で復元した模型を展示している博物館です。
滋賀県立安土城考古博物館安土城に関する展示も行っている博物館です。
大阪城天守閣 豊臣石垣館大阪城の地下に眠る豊臣時代の大坂城を展示している施設です。
佐賀県立名護屋城博物館名護屋城に関する資料を展示している博物館です。
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城跡って世界遺産になれるの?って思われたかもしれませんね
確かにどれも天守閣などの建物は残っていません
しかし、石垣などの遺構からは城の規模や構造がわかるので、
石垣といったものにも価値があると言える訳です!
イメージとしては、縄文遺跡などの考古遺跡といった扱いになる訳ですね。
あと、実は、織田信長と豊臣秀吉に関する世界遺産って存在しないんです。
意外ですよね~
彼らは世界史的な視点でも重要人物なので、
彼らに関する世界遺産があってもいいのではないかと思っています。
他にも、私が調査してて疑問に感じたのが、
長崎の潜伏キリシタンは世界遺産として評価されているのに、
仏教徒による共和制を築いていた歴史があまり評価されていない点です。
本願寺の門徒や一向一揆と呼ばれる人々が
城を用いて大名たちに抵抗していたという歴史は、
世界史的に見てもかなり特異です。
なのに国内では、
どうも天下人に対抗したというネガティブなイメージが強い印象を覚えます。
一見地味に思えるような歴史ですが、
名もなき人々が権力に抗い続けたという事実についての
評価を改めてもいいのでは、と調査をしながら強く思いました。
キリスト教は良くて仏教はダメっていう理論はそもそもおかしいですし。
最後になりましたが、このページを最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
今後もまだ見ぬ日本を、世界遺産に当てはめて紹介していきますので、よろしくお願いします!
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